神奈川細雪その二十九
「秀ちゃんへ
あんなあ、文子の縁談がまとまってな、お母ちゃんは今、大忙しなんや。福田小児科の先生が、お仲人やさかい、仕来たりもええかげんに出来へんの。まずは結納やろ、本家のばあちゃんに聞いて、納める品物準備しとる。堪忍な、そんな訳で今、帰ってこられても話を聞いてあげられへんよ、怒らんといて。文子のお相手は、二人といないええボンボンや。男前でな、文子もぽーっとなっとる」
こんな人を馬鹿にした話があるだろうか?自分も文子も同じ娘ではないか?
文子の結納には奔走し、何年も実家に送金した自分には帰ることすら拒否する。
あああ、ばからし
「なにが男前や」
「どうした?秀ちゃん」
隣で煙草をくわえた橋本が秀子の顔を覗きにきた
「橋本さんと一緒になること、お母ちゃんに報告したかったんや、そしたらな」
「お母ちゃん、ええ顔せえへんか?」
「今は、妹の結納でてんてこ舞いやて、後回しにされたわ」
「お母ちゃんに筋は通したかってんけど、それならそれでええやん、一緒に暮らそう、八王子に来てえな」
銀水旅館を辞めてから、小田原に借りた小さなアパートは、二畳の広さしかない。ため息が電球の古い紐を揺らした。
神奈川細雪その二十八
ステージ中央の光の渦の中で、今一人の少女が歌っている、後ろに並んだバンドはまるで彼女を守る従者のようだ。
ステージの暗がりで千鶴子は出番を待っている。永劫、続く光の中に千鶴子は生きたいと願っている。
幸か不幸か、四人姉妹の末っ子に生まれたこと
幼い千鶴子は「可愛い、いとはんやな」と他人から称賛されて育った。
与えられた物を精一杯、利用しなくてどうする?
あの街で燻っていたら、豆腐屋だの床屋だのの長男に見初められて、あかぎれをこしらえて働かされるだけだ。
スポットライトの中にいる少女の歌が終わる。少女は「らーらら」と飛び切りの笑顔を就くって、最後のフレーズを歌いきった。
厚生年金会館の客席、最前列にいるのは審査員たちだ。有名歌手の歌をつくる作曲家、作詞家の先生だ。何人かの審査員が、少女の歌に拍手をおくる。
客席では、高そうなお召しを着た中年女性がステージに手を振っている。母おやだ。
「電車賃が二人分になるさかい、予選会はお母ちゃん、いかれへん」
「ええよ、千鶴子一人で」
悲しそうに目を伏せたお母ちゃん
あの母親に楽をさせるため、自分はここにいるのだろうか?
そんな親孝行は考えたこともない
「平川千鶴子さん、曲は「可愛いベイビイです」
さあ、千鶴子の番だ。アナウンスされた名前は何だか、他人の名前のようだけど
借り物のハイヒールが、教えられたステージ中央のスポットを踏む。
「平川千鶴子です」
緊張することもなく、千鶴子の顔は笑顔を作った。
神奈川細雪その二十七
「秀ちゃんが、結婚一番乗りやなあ、しぶちんやから、お金と結婚するんやと、思ってたわ」
手紙をひろげたとたん、富の顔は曇った。
「こんな、調子のええ話があるやろか、秀子はすっかり浮かれとる。おじちゃんたちに相談して、返事書かんとな」
「騙されていたってええやないの、秀ちゃんは大人やで、恋愛は自由や」
「千鶴子、秀子は長女や、おかしな聟などおったら、あんたらの縁談にも響く」
「会社の社長やるような、偉い人が中居なんぞと一緒になるわけない、お母ちゃんは世間知らずやけど、聟さんの苦労は人の倍もしとる、 」
「ほらえ、文子、あんたにまた縁談きましたえ、こんだは福田小児科の奥さまの知り合いや、釣書みて、早うお返事せんと」
膝の前にひろげられた写真に文子の目はくぎ付けになった。
色白でぱっちりした目が優しげに微笑んでいる。引き締まった口元も上品だ。
「こんだの人は、江の電の運転士さんやて、手に職が有るってええわ、会って見るか、文子」
神奈川細雪その二十六
「珍し、秀子姉ちゃんから手紙きてはる。」
母は、手紙など細かい字を読むのが苦手だ。先に自分が読んでもいいだろうか。
考える前に文子は鋏を手に取る。
「お母ちゃん、御無沙汰しています。柿先神社のお祭りが終わった頃やろか、今日は、みんなをびっくりさせる、報告があります。
実は、この度、結婚することになりました。
相手は、荒井康夫さんといい、私が働いている銀水旅館のお客様です。去年から付きおうて、プロポーズされました。
東京で電機配線の会社、やってはるんやて。うちは一気に社長夫人や、みんな喜んでくれるやろ?
世田谷辺りに新居を建てて、秀ちゃんが家事が苦手なら、女中さん置いてもええって、優しい人なんよ、見た目はな、坂本九ちゃんにそっくりや
結婚式は、日比谷の帝国ホテルで、挙げようって、毎日言われとる。
文ちゃんやお母ちゃんにも、喜んでほしい、玉の輿やもん、
正月にみんなに披露するから、会って下さい、
それじゃあ、みんな体に気をつけてな、銀水旅館は年末で辞めます、
秀子」
神奈川細雪その二十五
はずみがついたように、いつもは寡黙な祖母の話は終わらない。
「年頃やさかい、縁談もくるやろ、選ぶ時はしっかりな毎日会社に行く男はんにしなはれ、男運の悪いんは、わてとみつでお仕舞いにしまひょ、」
「結婚て何か、ようわからんのや、お父ちゃんが居ないせいやな」
「こげな貧乏してるけどな、文子を嫁に出す時は精一杯のこと、せえへんとな。箪笥、長持は新品持たすえ、振り袖は、昔のもんがとってあるからそれを着たらええ、鶴と松の縫いの入った、豪勢な振り袖や」
「お祖母ちゃんが元気なうちに、うち結婚出来るやろか」
「文子、、、」
「子供のうちから、賢うて面倒見が良くて、優しい文子や、富の事は心配いらん、とっとと嫁にいき、そんでぎょうさん、ややさん産んでや」
「おおきにな、お祖母ちゃん、そろそろうち、玉の湯にいかんならん」
「なら、仕事場の玉吉おじちゃんに声かけて、一緒にな、行き帰りが物騒や。」
汚れて磨りガラスのような窓に夕やみがわだかまっている。
神奈川細雪その二十四
「戦争かて、庶民は誰も有り難がっておらへんよ、中国を我が物にしたかった、軍隊が勝手に始めくさったんや」
「文子、知ってるかあ?隣のセキお婆さんのお母ちゃんは風呂に入ってる時に飛行機にバババンと射たれはった、お腹射たれて、逃げる間もなかったろうに、うちのお父ちゃんがこさえてあげた内風呂でな喜んではったに」
「戦争だけは嫌じゃ、嫌じゃ、嫌じゃ」
「お祖母ちゃん、うちも3つ位だったけど、覚えておる。柿先神社で遊んでおるとき、気がついたら空に飛行機が一杯おったの、生きた気ぃもせなんだ、木の根っ子につまづいて、痛い、思たら、知らん男の人に抱き上げられてた、爆弾の雨の中、走って助けてくれはった、恩人がおるねん」
「そりゃ、権祢宜の泰助さんやな、死んだと諦めかけた文子が傷ひとつなく戻ってきたんやもん、泣いてお礼言うたわ、」
「柿先神社はうちもお供え、欠かしたことないけどな、泰助さんは胸が悪くて、兵役免れてはったんに、戦争末期には、普通の者と同じに赤紙きよった
「行かされたんは、寒い、寒い、シベリアやそうな
可愛いそうにな、それから、ばあちゃんはシベリア向いて、おがんどるの」
神奈川細雪その二十三
顔が赤らむ思いがするが文子たち姉妹は「種違い」だった。男女の事に疎く、潔癖な文子は深く考えないようにしている。母が連れ添った二人の夫は結婚という、正式な結び付きだし、姉妹間になんのわだかまりもない。
「最初の富の亭主は、郵便配達だったんよ。富にはなんの落ち度もないのに、婚礼の夜からな戦争未亡人の家に行ってしまいよったんや、うかつやったわ、よう調べてから富を嫁に出すんやった」
「それが、秀子と文子の父ちゃんや、早い段階で兵隊にとられて、ほっとしたで、まあ帰ってきいへんのは気の毒やけど」
七十をとおに過ぎて益々みつの記憶力は冴える。
「次の亭主は、うちとこで働いてた大工の見習いや、目ぇがくりくりしとって可愛いぼんさんやったわ。こんだは間違いのないような男選んで、富にあてがった」
「それが登代子と千鶴子の父ちゃんやな」
「そうや、職人にしては珍しく酒も飲まん男やってんけど、」
「あっちゅうまに、兵隊にとられた、日本はなわてらが知らんうちに戦争始めてたんよ
「知らんて事は無いでしょう?開戦記念日も有るよ」