神奈川細雪その二十九

「秀ちゃんへ あんなあ、文子の縁談がまとまってな、お母ちゃんは今、大忙しなんや。福田小児科の先生が、お仲人やさかい、仕来たりもええかげんに出来へんの。まずは結納やろ、本家のばあちゃんに聞いて、納める品物準備しとる。堪忍な、そんな訳で今、帰っ…

神奈川細雪その二十八

ステージ中央の光の渦の中で、今一人の少女が歌っている、後ろに並んだバンドはまるで彼女を守る従者のようだ。ステージの暗がりで千鶴子は出番を待っている。永劫、続く光の中に千鶴子は生きたいと願っている。幸か不幸か、四人姉妹の末っ子に生まれたこと …

神奈川細雪その二十七

「秀ちゃんが、結婚一番乗りやなあ、しぶちんやから、お金と結婚するんやと、思ってたわ」 手紙をひろげたとたん、富の顔は曇った。「こんな、調子のええ話があるやろか、秀子はすっかり浮かれとる。おじちゃんたちに相談して、返事書かんとな」「騙されてい…

神奈川細雪その二十六

「珍し、秀子姉ちゃんから手紙きてはる。」母は、手紙など細かい字を読むのが苦手だ。先に自分が読んでもいいだろうか。考える前に文子は鋏を手に取る。「お母ちゃん、御無沙汰しています。柿先神社のお祭りが終わった頃やろか、今日は、みんなをびっくりさ…

神奈川細雪その二十五

はずみがついたように、いつもは寡黙な祖母の話は終わらない。 「年頃やさかい、縁談もくるやろ、選ぶ時はしっかりな毎日会社に行く男はんにしなはれ、男運の悪いんは、わてとみつでお仕舞いにしまひょ、」 「結婚て何か、ようわからんのや、お父ちゃんが居…

神奈川細雪その二十四

「戦争かて、庶民は誰も有り難がっておらへんよ、中国を我が物にしたかった、軍隊が勝手に始めくさったんや」「文子、知ってるかあ?隣のセキお婆さんのお母ちゃんは風呂に入ってる時に飛行機にバババンと射たれはった、お腹射たれて、逃げる間もなかったろ…

神奈川細雪その二十三

顔が赤らむ思いがするが文子たち姉妹は「種違い」だった。男女の事に疎く、潔癖な文子は深く考えないようにしている。母が連れ添った二人の夫は結婚という、正式な結び付きだし、姉妹間になんのわだかまりもない。 「最初の富の亭主は、郵便配達だったんよ。…

神奈川細雪その二十二

「文ちゃん、明日、仕事が終わったらな、ダンスパーティ行かへん?」誘って来たのは更衣室で挨拶する程度の先輩社員だ。臨時雇いの文子らをいつも下に見ている。「へえ、明日は早く帰らんとあかんのだす。お母ちゃんの内職の洗濯挟み、配達せな。」「兄貴が…

神奈川細雪その二十一

富の家の四姉妹の末娘が美人コンテストに「優勝」したというビッグニュースは、たちまちのうちに街中に広まった。富も姉妹たちも歩けば捕まえられて、話をききたがる。「富さん、富さん、あんたとこのちいちゃん、この度はおめでとう、お茶入れるさかいちい…

神奈川細雪その二十

「このたびは、第二回ミス明星グランプリにご応募頂き深く感謝申し上げます。厳正なる審査の結果、あなたは最終選考に推薦されました。つきましては、グランプリ選考日にお越し頂きたく、ご連絡いたします」 玉吉おじちゃんがこさえた小さなポストから葉書を…

神奈川細雪その十九

玉吉の生まれ育った平塚は、県庁所在地横浜とは何もかも違う、田舎町だ。 田舎者特有の心理で、些細な変化や見慣れないよそ者を嫌う。だが押し寄せて来た戦後の好景気はそんな偏屈をすっかり廃除した、 戦後十年も経つと、住まいがバラックでは不味かろうと…

神奈川細雪その十八

警察と消防団、併せて二千人以上が隈無く捜索したにもかかわらず、四才の少女は行方不明のままだ。海へ注ぐ花水川の河口、生い茂る葭を掻き分けるようにして、探しに探して一年が過ぎた。「誘拐されて、新幹線のコンクリートに塗り込められた」そんな不気味…

神奈川細雪その十七

「口説かれている」と感じた瞬間、秀子は何時ものように軽くいなす事が出来なかった。「お客さん、かなわんなあ、ここは真面目な料理旅館でっせ、てんごも大概にな」毎日使っているフレーズが固まったように口からでない。「可哀想に苦労してんのやろ、秀子…

神奈川細雪その十六

ウグイスで向かい合った研吉はまず若葉に火を付けた。「わては、芸能人なんて知らんけどな。今一番の人気は吉永小百合やな。これが健気で泣けるんよ、貧乏人の娘やらせたら日本一や、」「おじちゃん、サユリストなん?意外や」 「ちいちゃんもサユリちゃんみ…

神奈川細雪その十五

学校帰り、千鶴子は制服のまま富の実家であるか「半田工務店」に寄ってみた。 祖母が飼っている猿がスカートの裾を引っ張るのが怖かったが、仕事場の隅で叔父の研吉が図面に向かっている。研吉は生まれつき、左腕が動かない。その不自由な肘と手首を使って、…

神奈川細雪その十四

「いやや、ふみちゃん、うちに会いになんかきたらあかんよ、」「なんでえな、小学校からの幼なじみやん、何処に住んだかて、友だちや」「友だちかて、決定的に差がついてしまうんよ、うちも詳しくは知らんけどな、オモニに聞いても暗い顔して黙りこんでしま…

神奈川細雪その十三

文子の家はこれ以上がないほど貧乏だが、工場で一緒に働いている千草の家は、もっと貧乏だ。常に栄養失調なのか仕事中に何度もたおれた。「千草ちゃん、もしかして朝ごはん食べてないんか」工場の休憩室の薄い毛布を引っ張りあげ、項垂れた姿は折れそうに細…

神奈川細雪その十二

朝まだき家族全員が布団の中にいる頃、いきなり叔父の玉吉が玄関をガラリと開けた。 「姉さん、寝てる場合と違いまっせ。町内中がゆんべから、大騒動や」 富が半身を起こして、法被に股引きすがたの弟を見た。「あれ、消防団のかっこして、こげな朝から、ど…

神奈川細雪その十一

何をやらせてもどんくさい子姉妹一の役立たず 「鈍いことは牛に任せてな、登代子ちゃんさっさとやりよし」底意地の悪い近所の女達に追いたてられても、登代子の笑窪は消えたことがない。 確かに洗濯をやれば午前中いっぱいかかってしまうし、雑巾がけをやら…

神奈川細雪その十

石原裕次郎とか言う新人俳優が、映画のロケに現れた時の騒ぎを、文子は思い出す。同じ地続きの海岸だというのに、茅ヶ崎、藤沢は湘南海岸と呼ばれ、何やらお洒落なイメージだ。裕次郎はヨットを操り、逆光をあびて文字どおり輝いていた。まるで戦争という暗…

神奈川細雪その九

「中居のあんたらがどんな手を使って、お稼ぎなさるんかは、勝手や。うっとこは曖昧宿やないけどな。わては、板前だす。裏のことまで係わりおうたら身がもたんわ、だがな」 「お客さんから貰うたチップはこの漬け物龜に入れて月末に頭割りするんが決まりや。…

神奈川細雪その八

「今にわてが店を持ったら、若おかみはふみちゃんやでえ、いっぱしの男やったら店のひとつも持たなあかんよ、嫁に来てえな、わて、働きもんや」今朝も牛乳屋の若い店員、克也がニヤニヤしながら声を掛けてくる。「おなごは二十歳すぎたら、早いで、ふみちゃ…

神奈川細雪その八

円錐形に固められたチョコレートがベルトコンベヤーに載って流れてくる、チョコレートの真ん中にパラソル形の小さな柄を差すのが、登代子の仕事だ。手先は器用な登代子だが、とにかく動作が遅く流れに乗ることが出来ない。 柄を差し損なった分は下流で待ち構…

神奈川細雪その七

納戸を改造して、巨大な日本猿を飼い始めたみつは町内一の変わり者として有名だ。「みつさん、なあ、勘弁してや。猿が恐ろしゅうて回覧板も届けられへん。檻の隙間から手ぇ伸ばして襲ってくるねん。」「飼うったって、犬か猫にして欲しいわ。ほんまに。あん…

神奈川細雪その六

見合いを勧めてきたのは、乾物屋のたねさんだ。「一概に、仲人口ってあわはりますけど、信用してもろてかまへん。二つとないええ物件や、見てみなはれ。ちゃんとした勤め人、ややこしい親類はなし、それにな」「見てえな、いい男ぶりですがな、外を歩くと近…

神奈川細雪その五

芦ノ湖とよばれる巨大な湖を見たとき、秀子は心底驚いた。川でなし池でなし、こんなおっきな水溜まりがあんねんなあ客が帰ったあと、布団を畳み 掃除に入るのが秀子の仕事だ。帰る直前まで部屋中を汚し、情事の名残を平然と置いて帰る客を秀子は憎んだ 時に…

神奈川細雪その四

千鶴子は初恋と言う感情がよく解らない。クラスでもませた娘は「野球部の佐藤くん、かっこええわ、笑顔が歌手の三田明そっくりや」「うちは断然井上くんやわ、優しいねん」などと騒いで内輪で盛り上がっている。同い年の少年など回りをぶんぶん飛び回る蜜蜂…

神奈川細雪その三

「お富さんは、あんきやなあ。四人も年頃の嬢ちゃんいやはるのに、片付けるきぃはあらへんの」「下の嬢ちゃんはまだ学校やさかい、仕方おへん、だけど上の二人はじきいかず後家でっせ」 娘の婚期について、最近はよくせっつかれる。富なりに「はよ、ええ人に…

神奈川細雪その2

顔にも体にもほってりと肉が付き、鈍重そうにみえる登代子だが、かなり手先は器用だ。 今も重ねたガーゼ生地を、レース糸でかがりハンカチを作っている。 「もうすぐ秀子姉ちゃんの給料日やな、」「あてにせんほうがええで」 「だって、修学旅行のお金、どし…

神奈川細雪

「ふみちゃん、市役所でなあ、アルバイトの巫女さん、募集してはるやろ」「ふん、市民会館に今度、結婚式場出来るんやて」「巫女さんてなんかええなあ、神秘的やん、衣装も白と赤で可愛いわ」「ちいちゃん、仕事は格好やない、やってみたいんか?」八百屋に…