神奈川細雪その四
千鶴子は初恋と言う感情がよく解らない。クラスでもませた娘は
「野球部の佐藤くん、かっこええわ、笑顔が歌手の三田明そっくりや」
「うちは断然井上くんやわ、優しいねん」などと騒いで内輪で盛り上がっている。
同い年の少年など回りをぶんぶん飛び回る蜜蜂みたいな存在で、けして憧れるような対象ではない。
この頃伸ばし始めて、肩にかかる髪を両手でアップにしてみると
「ちいちゃん、明星に出てる小川知子みたいよ」
より美しくなる為の努力は惜しまないが、男にまとわりつかれるのはめんどくさくて仕方がない。
去年は上級生に誘われて、新宿の繁華街まで行ってみたが、上級生にも新宿にも興味が持てない。
ただ、
「お姉ちゃん、来てくれはったら、たちまちナンバーワンやで、どや、キャバレー?」
「何か相談事あったら、電話してな」
押し付けられるように渡された呼び込みの名刺が微かな熱を持って、手のひらにある。
姉達が言うような「普通の落ち着いた暮らし」
今日までの平凡な日常を絶ちきる危険物なのに、名刺は千鶴子の汗を吸ってぬめりと重い。