神奈川細雪その八
「今にわてが店を持ったら、若おかみはふみちゃんやでえ、いっぱしの男やったら店のひとつも持たなあかんよ、嫁に来てえな、わて、働きもんや」
今朝も牛乳屋の若い店員、克也がニヤニヤしながら声を掛けてくる。
「おなごは二十歳すぎたら、早いで、ふみちゃん、行き遅れてしまうがな」
家の前の枯れ葉をざっと掃き寄せると、文子は返事もせずに家に入る。人目につく場所で若いもの同士が立ち話など、富が一番嫌うことだ。
「あぼやな、克也ちゃんは、うちは千鶴子とは違います」
手紙のやり取りも、立ち話も平気でするのは千鶴子
「女同士なら、平気なのに、上がってしまって喉の奥がひりひりするねん」
克也は大ヒット曲、「黒いはなびら」を歌った水原弘に似ていると、妹たちは言っている、そんな歌は知らないし高価なレコードなど、文子の家には一枚もない、
「俺は知ってる、恋の苦しさ」
唯一の娯楽のラジオからそんな歌が流れていたような気がする。
竹箒を納屋に仕舞うと、バス通りの方からコロッケを揚げる油の匂いが流れてきた。
「お腹がすいたわ、だけども、コロッケは高いわ、五十円も持ってないわ」
いつもの豆腐屋ならおからがほぼ只で手に入る。
文子はがま口を手にとった。