神奈川細雪その十五
学校帰り、千鶴子は制服のまま富の実家であるか「半田工務店」に寄ってみた。
祖母が飼っている猿がスカートの裾を引っ張るのが怖かったが、仕事場の隅で叔父の研吉が図面に向かっている。
研吉は生まれつき、左腕が動かない。その不自由な肘と手首を使って、蝋を引いた紙に鉄筆を走らせる。
「よう、ちいちゃん、来たんかい、」
「今日はアルバイトないさかい、おじちゃんにアイス奢って貰お、思うて」
「ちゃっかりしてるんが、ちいちゃんのええ所や」
「待ってや、あと少しで区切り着く」
妻も居らず、陽気な性質の研吉は気楽な話し相手だ。
「また、ちいちゃんは綺麗になったなあ、姪でなきゃプロポーズしてるところや
学校でもてるやろ?」
「へえ、叔父と姪って結婚出来へんの?初耳やわ」
「法律で決まったはる」
「おじちゃん、あんなあ」
「ほーらほら、ちいちゃんがモジモジするときはなんかねだられる時や、可愛い姪のため、太っ腹なとこ見せたいがな、一眼レフのカメラ買ってもうて、一円もない」
「そんなら、その一眼レフでうちを撮って、あんなあ、うち芸能人になりたいんよ」
鉄筆を脇に置き図面から顔をあげた。
「こりゃ、ビックリやな、芸能人て、姉ちゃんには言ったんか?」
「反対されるに決まってるわ、でもな、うち、応募してしもうたの、ミス明星グランプリに」
「なんや、それ?」
「美人コンテストみたいなもんや」
「区切り着いたさかい、ウグイスでコーヒー飲みながら聞こか、ちっと待ってな、図面玉吉親方に届けてくるわ」
西日が千鶴子の髪を茶色く染め上げ、姪が異国の少女のように見える。
「芸能人、いけるんやないか」
とりとめのない思いがつかのま研吉を通りすぎた
神奈川細雪その十四
「いやや、ふみちゃん、うちに会いになんかきたらあかんよ、」
「なんでえな、小学校からの幼なじみやん、何処に住んだかて、友だちや」
「友だちかて、決定的に差がついてしまうんよ、うちも詳しくは知らんけどな、オモニに聞いても暗い顔して黙りこんでしまいよる、女しか出来へん、男相手の仕事やろな」
「女給さんと違うの?それなら従姉妹の初枝姉ちゃんもやってはる」
「仕度金というの、来週あたり貰うんや、そしたら田中写真館で、一緒に写真撮ろう、
写真撮って、「ウグイス」で餡蜜食べて、お揃いのナイロンバッグ買いましょう」
「ええな、ええな、それまでにな千草ちゃん、しっかり身体治してな」
秋の斜光が目に入るのか、千草の目が赤い。
「パラソルチョコレートだけは一生見たくないけど、ふみちゃんと働けて楽しかったわ、ちゃんとした勤め人と結婚して幸せになってな」
「うちはなーにも取り柄がないさかい、次の縁談がきたら決めてしまおうと思うんよ」
「それがええな、ふみちゃんの花嫁姿、見たかった」
茜色に染まったくもが東のそらを覆っている。遠くから、チャルメラの物悲しい音が流れてきた。
神奈川細雪その十三
文子の家はこれ以上がないほど貧乏だが、工場で一緒に働いている千草の家は、もっと貧乏だ。
常に栄養失調なのか仕事中に何度もたおれた。
「千草ちゃん、もしかして朝ごはん食べてないんか」
工場の休憩室の薄い毛布を引っ張りあげ、項垂れた姿は折れそうに細い。
「朝どころか、もう三日、食べるものがあれへんのよ」
「
「昨日は、オモニの給料日やってんけど、借金とりがきてなんもかも持っていかはった」
「…」
「恥ずかしいけど布団やちゃぶ台まで売ってしもうて、服着たまま寝てるんや」
「ごめんなあ、せめて麦飯のお握り、あげたいけど、うちとこもギリギリなんや」
「おおきにな、気持ちだけ貰っとくよ」
「学校で、千草ちゃんはほつれたうちの制服、上手にかがってくれはった、ありがとうな」
「あのな、」
「なんね、」
「工場で働けるのも、あとひとつきや、来月からな、うち、川崎で働らかされる」
「ええっ、川崎って、引っ越してしまうん、」
「ふみちゃん、優しゅうしてくれて、おおきにな、日本人やないさかい、差別されるのは慣れてる、だけど働いても働いてもなんでお腹一杯食べれへんのやろ、工場でチョコレート毎日つくってるのに、味わったこと一度もおへん。」
「何度も何度も、チョコレートわしずかみにしてわしわし食べること想像したわ、だけどな味を知らんで、空しいだけやった」
「川崎は都会や、そこでうちは人様に言えん仕事をする。辛いやろが、ここでくすぶって餓鬼になるよりましや、ふみちゃん、手紙書いてええか?」
「ええよ、川崎なんてすぐそこや、電車乗って会いに行くよ」
神奈川細雪その十二
朝まだき
家族全員が布団の中にいる頃、
いきなり叔父の玉吉が玄関をガラリと開けた。
「姉さん、寝てる場合と違いまっせ。町内中がゆんべから、大騒動や」
富が半身を起こして、法被に股引きすがたの弟を見た。
「あれ、消防団のかっこして、こげな朝から、どうしたん」
「川向こうの神社下の空地な、今からあっこで人探しや、四才の女の子がな昨日から家に帰ってないらしい」
「空地は、バラックいっぱい建ってますなあ、あっこの子供かい」
「そや、親は半狂乱やし、警察に届けたのも、今朝らしい、わてらに召集掛かったのも今さっきや 、
警察官ウロウロしてるさかい、ふみちゃんたち、今日は仕事は休みなさい」
「みつかんかったら、川浚えも考えなあかん。小さい子供やさかいなあ、」
「いやあ、おかあさん可哀想やなあ、生きた気もせんやろ」
「新幹線工事なあれがけったいな人間を平塚に集めてしまったんよ、誘拐だったら、許しまへんで
」
新幹線という日本一速い乗り物は平塚の町の頭上をただ通過するために大工事がはじまっている。電車にすら乗らない富にそのスピードは想像すら出来ない。
神奈川細雪その十一
何をやらせてもどんくさい子
姉妹一の役立たず
「鈍いことは牛に任せてな、登代子ちゃんさっさとやりよし」
底意地の悪い近所の女達に追いたてられても、登代子の笑窪は消えたことがない。
確かに洗濯をやれば午前中いっぱいかかってしまうし、雑巾がけをやらせればしぼりの足りない雑巾があっちこちに水溜まりをつくる。
おっとりと優しい母は「ちいっと絞りが足りんねえ」
きつく叱られた事がない。
賢く、美しさにも恵まれた姉たちを見ていると、何かの違いに気づくのだ。
それは物心ついてから、ずっと登代子に纏わりついてきた「種違い」という言葉
子供はどうしたら生まれるのか、うっすらとは分かってきたが、「種」とは何か
大人に聞くわけにはいかないのだ。
「種」がおなじでも妹の千鶴子は、人が振り返るほどの美少女ではないか、
考えると頭がこんがらがるので、登代子はひたすら、ビーズ細工に没頭する。
近ごろ流行のビーズのバッグは登代子が一番綺麗に編める。
「とんちゃん、キラキラしてて綺麗やな」
「ふん、鞄屋の店に頼んで売って貰うねん」
カーテンもない座敷には西日がまともにあたり、チカチカする。
神奈川細雪その十
石原裕次郎とか言う新人俳優が、映画のロケに現れた時の騒ぎを、文子は思い出す。
同じ地続きの海岸だというのに、茅ヶ崎、藤沢は湘南海岸と呼ばれ、何やらお洒落なイメージだ。
裕次郎はヨットを操り、逆光をあびて文字どおり輝いていた。
まるで戦争という暗い時代が在った事を忘れるように
文子にとって海岸は、気前のいい漁師のおじさんから、小魚をもらったり、春のワカメを拾いにいったり、胃袋を満たす為の供給地なのに
平塚の海で泳いだらあかんよ
物心ついたときから、きつく言いわたされている
浅そうに見えても、飛んでもない海溝がすぐそこにあるらしい。
よって遊泳禁止
「姉ちゃん、みてんか、水着な友だちがお下がりくれはった、最新式のビキニや、今年は、これ着て海で泳げる」
「あんた、そんな臍だしで泳ぐんか」
「北原三枝だって、着てたやん」
「ちいちゃんは、せえが高いから似合うかもな、何しろ紅谷町小町や」
「誰がいってんねん、そげなこと」
「姉ちゃんもビキニ、着たら南田洋子になれるがな」
八百屋の伯母さんがくれたいんげん豆は、
育ちすぎていて、筋をひくと途中で切れる。
生姜和えにしようか?
みそはとっくに切れていて味噌汁は作れない。
神奈川細雪その九
「中居のあんたらがどんな手を使って、お稼ぎなさるんかは、勝手や。うっとこは曖昧宿やないけどな。わては、板前だす。裏のことまで係わりおうたら身がもたんわ、だがな」
「お客さんから貰うたチップはこの漬け物龜に入れて月末に頭割りするんが決まりや。守れんならここ辞めて貰うて宜しいで。特に女中頭さん」
板前の田中に睨み付けられた女中頭は、首をすくめて項垂れている。
「先週いらした慶應義塾大学の早川先生な、あんたにどえらいチップくれはったそうやな、わてはいっこも知らんで、お礼も言わんとどえらい恥かいてしもうた」
板前のくどくどしい説教を聞き流しながら、秀子は今月貯めた貯金額を考えている。
特に美しくもない平凡な自分に出来ること
男の一人客の相手をすること、そして貯金だ、
いまだに親元にいてそれなりに楽しく娘時代を過ごしている妹たちを羨んだことはない。
「修学旅行のお金出して下さい」
登代子からの手紙を引き出しの奥にしまう。破り捨てないのは、海に面したあの小さな町を時々思い出すためだ。